「ボカ〜ン!」はリズケンがお贈りするエンターテイメント・マガジンです。
リズケン・スタッフや外部ライターの方による傑作をお楽しみください!
リズケンサイト・トップページへ
    
・カリエンテカリエンテ2002年3月号
 3月である。3月と言えば、女の子の節句ひな祭りである。
 あたしも、一応女の子であるから、この時期には小さいながらもおひな様を押入からゴソゴソと出す。しまう時は、早く片づけてしまわないと、嫁に行くのも遅くなる、と言われているため、毎年マッハの速さで片づけているのだが、未だ嫁に行っていないというのは、いったいどういう事なのだろうかと首をかしげてしまう。
 今でも若いが、今よりも若い頃、ひな祭りの時に友人宅へ遊びに行ったとき、どこかで買ってきた甘酒を注いでもらい、「まずー。」という印象を持ってしまった。「やっぱり、甘いからイカンのだ。酒が甘いなんて許せんッ。」などと思いこんでいたが、それから何年か経ち、いとこの子が甘酒を作ってくれて、それを呑んでみた。
 やさしい味がして、実に美味しかった。すっかり気に入ってしまい、今までの分も取り返そうと、大量にご馳走になったのであった。

・サルサはどうやって生まれた?_その2

サルサの誕生

 時は流れ、20世紀の初頭、キューバとプエルトリコはスペイン最後の植民地となっていた。
 米西戦争に勝利したアメリカはプエルトリコを米国の自治領とし、これ以降、ニューヨークには多くのプエルトリコ人が市民権を得て、働くことが出来るようになった。これにより、移民社会の基礎が築かれ、アメリカのレコード会社は彼らのために、キューバのソンや、プエルトリコのプレーナなどをレコーディングした。
 そして、やっと独立を果たしたキューバも、不平等条約のもと、実質的に米国の支配下におかれ、キューバの首都ハバナは、米国人向けの大歓楽街として繁栄していき、エキゾチックなキューバ音楽は大変にもてはやされた。
 
 最初に世界へ出たキューバ音楽は、アルゼンチンのタンゴのもととも言われているダンサから発展したハバネラ、ダンソンである。
 そして、次に、ドン・アスピアス楽団の「南京豆売り」がニューヨークで大ヒットし、世界的に有名になったのがルンバ。実際にはソンなのだが、ソンという名前はわかりにくい為、ルンバと呼び、売り出したのであった。
 ペレス・プラードによって広まったマンボ、エンリケ・ホリンによるチャチャチャなどは、50年代のキューバでは一大ブームとなったのだが、ニューヨークでは、さほど広まらず、代わりにパチャンガが流行した。

  1959年にキューバ革命が起きると、アメリカはキューバと国交を断絶。ニューヨークへはパチャンガを最後にキューバの最新流行音楽が入らなくなってしまった。そこで、当時プエルトリコ人を中心とするニューヨークのラティーノたちは、新しいサウンドを作り出して行く事にしたのである。

 60年代、ラテンロックの元祖と言われるブーガルーが流行し、キューバ音楽とロックやジャズの要素を掛け合わせる実験がデスカルガによって行われた。
 64年、キューバのビザ発行が閉鎖される直前までハバナで仕事をしていた、離婚弁護士のジェリー・マスッチと、キューバ音楽でキャリアを築いてきたジョニー・パチェーコが、ニューヨークで開かれたパーティーで知り合った。お互いにキューバを愛していた2人は、契約を結び、ファニア・レーベルを設立。
 「ラテンのモータウン」と呼ばれるようになったファニアは、ラテン音楽史上、最も影響力のあるレーベルにまで成長し、キューバ音楽を「サルサ」と呼ばれるサウンドに練り上げたのである。
 
 71年、マンハッタンのクラブ・チーターで、ファニアに所属する、ラリー・ハーロウ、レイ・バレット、チャーリー&エディ・パルミエリ、ウィリー・コロン&エクトル・ラボー等のスーパーグループが歴史的なライブを行い、ここでサルサは1つの頂点を迎えたのだった。
 この模様は、2枚組のアルバムとなって発売され、「ヌエストラ・コサ・ラティーナ_アワー・ラテン・シング」として、映画化もされた。これによって、サルサは世界に広まっていったのである。


Presented by RIZKEN / since 2001.03 / All rights reserved by KENMUSIC