はじめに
私は1959年生まれである。そして1970年代のポピュラー・ミュージックを愛している。もちろん 80、90年代の音楽を好む同年代の人も多い。しかし私の周囲の同世代は口を揃えて「70年代の音楽がいちばん良かった。」と言う。もちろん私も同感である。このレポートでは70年のポピュラー・ミュージックがなぜ今でも支持され続けているのか、また60年代から何を受け継ぎどのように姿 を変えて発展してきたのかを、70年代のエポックメイキングなミュージシャンを中心に検証してみたいと思う。
1.ビートルズの出現
70年代以前にはもちろん30年代~60年代のポピュラー音楽が存在していたが、いわゆるハイファイな音で多くの音楽ファンが音楽を聞けるようになり、音源もすぐに手に入るようになったのは日本においては1960年代にはいってからである。1962年ビートルズはメジャーデビューを果たし1970年の解散まで約8年間の活動でこの時代のポピュラー音楽に歴史を刻んだ。そして現在に至っても彼らの残した楽曲は多くのファンを持ち、多くのプレイヤーによって演奏されている。
彼らがデビューした時期には彼らはけっして珍しい形態を持つバンドでは無く4人編成のポピュラーバンドは沢山存在していたはずだが何故彼らだけが頭角を現したのか。もちろんそうなったのにはジョージ・マーティンの力も大きな役割を果たしただろうし、彼らのチームのマーケッティング力も大きな役割を果たしたことは事実である。しかしなによりもその原動力となったのは彼ら4人の持っていた音楽的アイデアであり、それぞれの持つキャラクターである。
彼らは4人とも第2次世界大戦中、英国の港町であるリバプールで生まれたがその両親はアイルランドから渡ってきた移民である。直接的にではないが彼らにはケルトの文化の一端やアイリッシュ・ミュージックは潜在的に引き継がれていたと思われる。彼らの初期の作品にはあまり見られないが、中期の作品以降はそれこそいままで誰も表現したことは無いと思われる作品が、多く登場している。特に後期の彼らの作品に残るアイデアはケルトの文化の象徴であるケルト文様の様に感じられる。また、彼らの出現は「ながい時を隔ててときたま新しい隔離された土地にやってきて、新しい隣人たちと競争しなければならなかった種は、きわめて変化をこうむりやすく、しばしば変化した子孫の群を生じる」という生物進化理論における新種誕生の重要なシナリオに正にぴったりと当てはまっている。
極論だがビートルズの誕生が無ければ現在のポピュラー音楽文化は全く違ったものになっていたはずで、パンク、ハードロック、プログレッシブなどと呼ばれるジャンルは生まれていなかったか、またはその登場が100年程後になっていた可能性もある。逆にチャック・ベリー、エルビス・プレスリー、フランク・シナトラが存在しなかったらビートルズも生まれていなかった可能性もあるのだが、幸いビートルズは誕生し、8年間の活動において様々な音楽のスタイルを築いた。そして彼らの残したものは一つの大きなジャンルであると考える。
現在、さまざまなアーティストが存在し、それぞれが影響しあってそのアーティストの作品を作っているが、それがいわゆるたまたまヒットを生み出したアーティストの真似でしかない事が多く、アイデア自体は欠落していて創造する力が感じられないと感じるのは私だけではないと思う。しかしビートルズ以後の音楽を作っていったアーティスト達は違っていた。70年代には様々なジャンルのバンドが登場してくるがそれぞれに独自のアイデアが盛り込まれ、どの作品も新鮮であり、いわゆる聞きたい音楽に溢れていたのである。ビートルズを聞いて影響を受け、それを独自のアイデアに上手く取り入れていき70年代の音楽をスタートさせたアーティスト達は70年代のビートルズを夢見ていたことだろうし、またその高いハードルを飛び越えたかったに違いない。
1970年末ビートルズは解散し個々のメンバーはそれぞれソロ活動を始め、ソロアルバムを発表するが、4人の作品が全く違う世界を作っていたのには驚いたものである。逆に言えば全く違う4人の感性があってこそコンセプト・アルバムのバイブルとも言うべき『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド』や『アビー・ロード』が生まれたのであろう。
2.70年代のポピュラー・ミュージック
1960年代はポピュラー・ミュージックの創世記であり多くの巨匠が生まれた時代である。そして1970年代に入りポピュラー・ミュージックは成熟期を迎え、世代交代の時代に突入していった。
現在でも活躍するビッグ・ネームの多くはそんな70年代前半にその最高傑作と言われているものを発表しており、そのスタイルは現在にも受け継がれている。私がもっとも敬愛するELTON JOHNも例外ではなく、70年~74年に発表された作品はそれぞれが違うコンセプトをもった最高傑作であった。しかし70年代後半から80年代後半はいわゆる低迷期にはいり傑作と呼ばれる作品は発表されることはなかった。90年代から彼は70年代に起用したミュージシャン、オーケストラ・アレンジャー、プロデューサーと再度仕事を始めた事により彼の持ち味を今に蘇らせている。そして70年代はシングルよりもアルバムが重要視される時代に入り、ポピュラー・ミュージックがビジネスとして成立することにより商業主義的な音楽も多く生まれることとなった。それでは現在でも第一線で活躍するポピュラー・ミュージック界のアーティスト達の1970年からの足跡を辿って時代背景を折り込みながら当時のムードを振り返ってみよう。
3.ポピュラー・ミュージックの発展
1970年、ベトナム戦争が泥沼化していく中、ジョン・レノンは当時、反戦デモに参加し、平和を訴える活動を盛んに行っていた。商業主義的な音楽業界の中でジョンは自分の意志の赴くまま、自由にメッセージを伝えたかったのだろう。このソロアルバムが発表された時は「これがあのビートルズのジョン?」と耳を疑ったファンも多かった。1980年ジョンは凶弾に倒れてしまったが、今もなおジョンの数々の名曲は人の心を掴み続けている。
カーペンターズがデビューしたのもこの時期である。ジョン・レノンの活動とは対照的に彼らの音楽はノスタルジーに満ち溢れた古き良きアメリカのイメージであり、ベトナム戦争も人種差別もない自由と平等の国のイメージでもあった。そしてそれはユートピアの歌であり、夢に見る理想の世界のイメージであった。
1970 | アルバム | 時代背景 |
Bridge Over Troubled Water /Simon & Garfunkel |
オリジナルアルバムとして5作目にしての最終作である。2003年にアメリカ、カナダで再結成ツアーを開始する。 | ● 万国博覧会開催 ● NY株式市場大暴落 ● ベトナム戦争泥沼化 ● よど号ハイジャック ● FM東京放送開始 ● ビートルズ解散 ● 三島由紀夫割腹自殺 ● 歩行者天国実施 ● J.ジョップリン死去 ● J.ヘンドリックス死去 ● T-Rexデビュー ● E.JOHNデビュー |
John Lennon /Plastic Ono Band |
ジョン・レノンのソロ・デヴュー作。ビートルズとの決別そしてより内面的なメッセージが伝わる作品である。 | |
Eric Clapton /Eric Clapton |
クリーム的ブリティッシュ・ハード・ロックのギタリストとして期待されながらも、クラプトンが選択したのは、ブルースの母国アメリカの土臭い南部系の音楽であった。 |
下に紹介する3枚のアルバムでは紹介しきれていないのは残念ではあるが70年同様、71年もポピュラー・ミュージックはそれぞれのジャンルで成熟の時を迎えている。意見は分かれるところだがレッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド両者ともそれぞれのスタイルを確立し、最高傑作といわれるアルバムを残しているのは非常に興味深い事実である。
この時期成熟期を迎えたアーティスト達が次作のアイデアに頭を抱えていた一方で、後に快進撃を開始するイーグルス、ドゥービー・ブラザース、アース・ウインド・アンド・ファイアー等が続々とデビューを果たし、ポップ・チャートでの熾烈な戦いが始まることとなる。話はそれてしまうが、アーティスト達がこれだけ素晴らしい仕事をして音質的にも現在のものに勝るとも劣らない音源を残せる時代に日本のNHK綜合テレビのカラー放送がやっと始まったという事実には驚く。
1971 | アルバム | 時代背景 |
Tapestry /Carole King |
'60年代にコンポーザーとして名を馳せた彼女が'70年にソロ・デヴューした。このアルバムは2作目でありシンガー・ソング・ライターとしての名声を確立した名作である。 | ● 中国国連復帰 ● NHK綜合テレビカラー化 ● ボーリングブーム ● マクドナルド一号店が銀座 にオープン ● 沖縄返還協定調印 ● イーグルスデビュー ● ドゥービー・ブラザースデビュー ● アース・ウインド・アンド・ファイアーデビュー |
Led Zeppelin Four /Led Zeppelin |
このアルバムでは前作同様、アコースティックな曲もやっており、この後もツェッペリンのひとつのスタイルとして定着していく。 | |
Meddle /Pink Floyd |
最もピンク・フロイドらしいと思われるアルバムである。アコースティックな曲からハードな曲までどれも幻想的なフロイド・サウンドが堪能できる。 |
4.ポピュラー・ジャンルの細分化
テイク・イット・イージー(EAGLES)、スモーク・オン・ザ・ウォーター(DEEP PURPLE)、クロコダイル・ロック(ELTON・JOHN),サタデイ・イン・ザ・パーク(CICAGO),ラウンド・アバウト(YES)、ゲット・イット・オン(T-REX)、アローン・アゲイン(Gilbert O'Sullivan)、ハート・オブ・ゴールド(NEIL・YOUNG)ユー・アー・ソー・ベイン(CARLY・SIMON)、マスカレード(LEON.RUSSELL)、リッスン・トゥ・ザ・ミュージック(DOOBIE・BROTHERS)、1972年もポピュラー・ミュージックがチャートを賑わせていた。
日本国内に於てこれだけ欧米のアーティストが話題になり、もっとも彼らのレコードが売れたのはこの時代だったはずである。アーティスト達も次第に日本をアジアのマーケットの拠点としてとらえていった。そして来日してプロモーション活動を行い、大きな会場でのライブ・コンサートも盛んになっていった。
ロックというジャンルも個性に溢れたアーティストの出現により細分化されて、エルトン・ジョンやT-REX,デビッド・ボーイなどの音楽をグラム・ロックと呼び、イーグルス等をウエスト・コースト・ロック呼び、イエスやピンクフロイドの様に1曲1曲が非常に長く組曲的に展開していくジャンルの音楽をプログレッシブ・ロックと呼んだ。
レコーディング技術が凄まじく発展して行く中で、再生装置も目覚ましく発展していった時期もこの時代である。アナログ音源をいかにマスター音源に近い音で再生出来るかに、当時のオーディオ・マニアは音の入り口であるレコード針、増幅器であるアンプ、音の出口のスピーカーの組み合わせの研究に没頭し、かなりのお金を使っていた。私の兄もその一人で自慢のシステムで聞かせてもらった音は、現在では体験することが難しいと思われる「良い音」であった。
1972 | アルバム | 時代背景 |
Caravanserai /Santana |
前作まではラテン・ロックのイメージが強かったが、このアルバムはかなりジャズ色の濃い作品になった。筆者にとって『風は歌う』非常に印象的だった。 | ● 浅間山荘事件 ● カラオケ誕生 ● 横井庄一さんがグァム島のジャングルで発見される ● 川端康成ガス自殺 ● 沖縄本土返還 ● ポール・サイモンソロ活動を開始 |
Close To The Edge /Yes |
同じプログレといわれるジャンルの中でもイエスはピンク・フロイドとは全く違う種類の音楽を目指していた。間違いなくYesの最高傑作といえる。 | |
Talking Book /Stevie Wonder |
ヒット曲「迷信」、「サンシャイン」を含む記念碑的アルバム。このアルバムの大ブレイクにより彼はスーパースターとしての道を歩み始める。 |
インターネットの無い時代、好きなアーティストの来日情報や新作の発売予定等の情報は新聞、ラジオ、テレビ、雑誌等で収集するしかなかった。その頃私は本屋でミュージック・ライフの立ち読みをすることでエルトン・ジョンの情報を得る事にしていた。一般的にはそのアーティストのファンクラブなどに入会していればそれなりに情報もあったろうし特典なども貰えた可能性もあったのだろうが、それはしなかった。自分はエルトンに関していわゆる『ミーハー』であった訳だが、そのパワーを他の『ミーハー』と共有するのを敬遠したためであると今は考える。
私にとって1970年代のトピックはやはりエルトン・ジョンの『Good bye yellow~』にほかならない。評論家によっては『エルトン本来の持ち味は消え、実験的音楽に走ってしまった。』などの評価もあったが、このアルバムは間違いなく彼が成長した証であることに間違いない。2枚組アルバムはそれにコンセプトを持たせることは非常に難しいことであり、そのなかに穴埋め的な楽曲がちりばめられている事がほとんどであった時期にありながら、この『Good bye yellow~』には駄作的な楽曲は全く含まれていない。そしてその内容はマルチ・ジャンルである。ビートルズが後期に残した作品群がそうであったように、エルトンについても70年代のポピュラー・ミュージックの変遷に大きく影響を与えていったマルチ・ジャンル・アーティストであることに間違いない。
5.アイルランド音楽の参入
20世紀後半のポピュラー・ミュージック・シーンにおいて、次々に登場した第三世界の新しいサウンドに唯一対抗できた白人世界のポピュラー音楽は、アイルランドの音楽だけだったのではないだろうか。なぜ、たかだか人口300万人ほどの小国が、ここまで影響力を持つ音楽を生み出し得たのか。
ビートルズ、ローリング・ストーンズ、U2、エルビス・コステロ、ヴァン・モリソン等に多大な影響を与えたアイルランドの音楽にここで少し触れておきたいと思う。アイルランド音楽の保存と革新の両面を支えた「英雄」と呼ぶに相応しいユニットが、ドーナル・ラニーが率いる1973の枠でアルバムを紹介しているPlanxtyである。
Planxtyの立役者であるドーナル・ラニーは、1947年ダブリンの西、キルデア州ニューブリッジという街に生まれる。彼の母親の出身地はアイリッシュ・トラッドの中心地、ドニゴールだったが、彼自身はあまりトラッドには興味がなく、アメリカでブームになっていたフォーク・リヴァイバルの方に感心が向いていた。しかし、1956年にニューヨークでデビューしたアイルランドからの移民バンド、クランシー・ブラザースのアメリカでの大活躍は、アイルランドの若者たちの関心を一気にアイリッシュ・トラッドへ向けさせ、彼も仲間たちとクランシー・ブラザースのコピー・バンドを結成することになる。
彼がプロの道として最初に選んだエメット・スパイスランドというバンドは当時流行のフォーク・ロック系のバンドであったため、彼は夜遅くパブに行き、そこでアイリッシュ・トラッドのミュージシャンたちとのセッションを行いながら、そのテクニックを学んでいった。中近東で生まれ、ギリシャの民族楽器として有名になり、アイルランドでもトラッド系のミュージシャンが使うブズーキという楽器を彼もこのころからギター代わりに使い始めていた。
バンドのヴォーカルとバウロン担当のクリスティー・ムーアは、元々フォーク系のアーティストで、そのメッセージ性の高さと力強い歌声から、今やアイルランド音楽界の大御所的存在となっている人物。マンドリン担当のアンディー・アーバインは、アイリッシュ・フォーク・ロックの先駆けといわれるバンド、スウィニーズ・メンのメンバーだったが、その後東欧各地を旅しながらケルト系音楽と東欧音楽との関連に着目、その影響をアイルランドに持ち帰った人物であり、ブズーキを最初に取り上げた人物。リーアム・オ・フリンは、アイリッシュ・トラッドになくてはならない楽器、イーリアン・パイプの名手。彼が奏でるメロディーがあって、初めてアイリッシュ・トラッドの魅力が生まれると言えるほどの重要な楽器である。そして、この3人にドーナル・ラニーのブズーキが加わることによって、アイリッシュ・トラッドの新しいスタイルが生まれ、その結晶が1973年のデビュー・アルバム「Planxty」として発表されることになる。
進化を続けるアイルランドの音楽を象徴する、より現代的になったアイリッシュ・トラッドの世界、それがPlanxtyのサウンドである。ドーナル・ラニーはPlanxty解散後もプロデュースを中心に活動を続け、1998年には彼の初ソロ・アルバム『Donal Lunny Coolfin』が発表された。
1973 | アルバム | 時代背景 |
Goodbye Yellow Brick Road /Elton John |
エルトンの金字塔的な2枚組アルバムで彼のスーパースターの座を確立した。一方非常に実験的なアプローチも多かったためか、離れていってしまうファンも多かった。 | ● オイルショック ● 金大中氏事件 ● ベトナム和平協定調印 ● ウォーターゲート事件 ● Queenデビュー ● Aerosmithデビュー ● 10CCデビュー ● キャロルデビュー(日本) ● 荒井由美デビュー(日本) |
Planxty /Planxty |
Donal Lunnyを中心とする4人組のアイリッシュ・ミュージック史上最高傑作と言われている。多くのブリティッシュ・ロックのアーティストに多大な影響を与えたといわれる。 | |
Band On The Run /Paul McCartney & Wings |
バンドとしての音作りの為か、当時発売された作品にしてはローファイなアルバムだ。Wingsというバンドがまとまりを見せてきた一枚である。 |
6.パンク・ロック
1975年から1980年に一世を風靡した「パンク・ロック」をどのように聴いたかで、ロック・ファンは大きく分けられる。60年代からロックを聴いてきたファンの多くにとって、「パンク」は頭の悪い子供の馬鹿騒ぎとしか思えなかったのはロック・ファンではなかった私も例外ではない。しかし、この時代に青春時代を迎えたロック・ファンにとっては、「パンク」は真のロックであり、それ以前から同じ曲を演奏し続けているアーティストたちこそ「ロックの墓石」的存在であったのである。
既成概念を否定することから生まれた「ロック」という文化は、いつしか「パンク」により否定されるべき既成概念になってしまったのである。パンクには多くの人に誤解されていることがある。それは、パンク・ロック=ロンドン・パンクという図式が常識になっていることである。
パンクが、ロンドンのあのツンツン頭と安全ピンの若者たちによって生み出されたというのは誤解である。確かにパンクを時代の先を行くファッション=パフォーマンスとして、巨大なムーブメントにしたのはロンドンの若者たちであったが、音楽としての「パンク・ロック」を生み出したのは、実際はニューヨークに住むアート系の若者たちだった。
テレビジョンやトーキング・ヘッズはなどは、まさにその代表格でと言える。そして、その中でも21世紀を迎えた今、相変わらずパンク本来のパワーを持続し活動するパティ・スミスこそ「パンクの女王」と呼ぶにふさわしい、ただ一人時代を突き破ったパンク・ロッカーと言えるのではないだろうか。彼女はもともとは、ミュージシャンではなく詩人だった。しかし、ロック・バンドの演奏をバックに詩の朗読をしているうちに、いつしかバック・バンドを持つようになり、詩にメロディーがつくようになっていったのである。そして、ロック・ヴォーカリストとして衝撃のデビューを飾ったのだ。
残念ながら、パンクの時代に生まれた作品の多くは、時代の象徴としての価値は高くても、時代の壁を越えるだけのクオリティーを持ったものは数が少なかったと言える。ロンドン・パンクではクラッシュ、ニューヨークの上記のバンド以外では、ジョーイ・ディビジョンあたりは、時代を越えて活躍を続けたが、その多くは時代の流れとともに消滅した。
しかしパティ・スミスは完全に「時代性」を越えた存在であった。だからこそ、彼女はこのデビュー・アルバムの後、結婚や出産などにより少しづつ変化をしつつも、パンク・ロッカーとしてのスタンスを変えることなく、未だにそのクオリティーを保ち続けているのである。そういった意味では、彼女のサウンドに、「パンク・ロック」というくくりを押しつけるのは間違っているのかもしれない。それは、本当の意味で「ロックの原点」であり、「プレ・ロック」とでも呼ぶべきものなのである。
1974 | アルバム | 時代背景 |
461 Ocean Boulevard /Eric Clapton |
ドラッグ中毒から復活してマイアミで録音された作品。どの曲を聞いても非常にリラックスしたクラプトンのボーカルが聞ける。 | ● 長嶋茂雄引退 ● ウオーター・ゲート事件によりニクソン大統領辞任 ● ジョン・レノン、アメリカ入国管理曲からビザ延長拒否され出国命令受ける。 ● 映画『エクソシスト』上映。 ● 小野田さんがフィリピンで発見される。 |
Sheer Heart Attack /Queen |
デビュー当時はレッド・ツェッペリンと比較され似ていると評価されていた彼らだが、ここに来て彼らなりの実験的音楽が始まる。キラー・クイーンは大ヒットをおさめた。 | |
I Can Stand A Little Rain /Joe Cocker |
酒とドラッグに溺れていたジョー・コッカーの復活作。一流スタジオミュージシャンを集めて作ったAOR的作品。 |
1975 | アルバム | 時代背景 |
Physical Graffiti /Led Zeppelin |
ギター中心のハード・ロック・スタイルからバンド・アンサンブル・タイプへと変化を遂げたツェッペリンの6作目にして初の2枚組大作である。 | ● ベトナム戦争終結 ● 米ソ宇宙船のドッキング成功 ● 沖縄海洋博覧会開催 ● ベイ・シティ・ローラーズデビュー ● アル・ジャロウデビュー ● マンハッタン・トランスファーデビュー |
One Of These Night /Eagles |
事実上イーグルス・サウンドの完成型の作品である。このアルバムからは多くのヒットが生まれ、ウエスト・コースト・ロックのスタンダードになっている。 | |
A Night At The Opera /Queen |
前作のヴァラエティ路線が、より洗練されたポップな形で展開されている。以後もマルチ・ジャンルスタイルでアルバム制作は続けられていく。 |
7.ロック黄金時代の終焉
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」という曲は、70年代に一世を風靡したウェストコースト・ロックの黄昏を告げただけでなく、50年代から続いていた「ロックの時代」そのものの終わりを告げた曲と言われている。
拡大を続けたロック文化のフロンティアがついに、アメリカの西の端で終わりを迎えたわけだ。その歌詞には、ロック文化の到達した退廃的な世界が美しくも皮肉に描かれている。しかし、別の見方をすると、この時期はロックがカウンター・カルチャーの枠を越え、大衆文化へと進化をとげた時期でもある。そして、その結果としてこの時期に、かつてない売上を記録するモンスター・アルバムが次々に登場していった。
フリートウッド・マック「ファンタスティック・マック」、スティーブ・ミラー・バンド「鷲の爪」、ボズ・スキャッグス「シルク・ディグリーズ」、ピーター・フランプトン「フランプトン・カムズ・アライブ」、ジェファーソン・エア・プレイン「レッド・オクトパス」など。ポピュラー・ミュージックは完全にアルバム・セールスの時代に突入し、桁違いの売上が期待できる巨大産業へと進化をとげた。
営業ロック・産業ロックとまで言われたハードロックバンド、フォリナーが登場したのもこの時期である。彼らはヒット商品としてのロック・アルバムをつくる職人の先駆けだったと言えるだろう。しかし、この頃時を同じくして、世界最高のロックバンドと呼ばれたザ・バンドが解散し、逆に80年代のパンク・ムーブメントをリードすることになるアーティストたちが次々にデビューしていく中で、時代は変わりつつあった。すでに、ロックの黄金時代は終わりを迎えようとしていたのである。このような音楽文化的背景から「ホテル・カリフォルニア」は、ロック文化の歴史における「黄昏時のテーマソング」となるよう運命づけられていたと言える。
1976 | アルバム | 時代背景 |
Boston /Boston |
非常にスローペースでアルバムを作るバンドで、現在までに4枚のアルバムしか発表していない。しかしいずれもヒットしている。 | ● 中国の周恩来首相死去 ● ロッキード事件発覚 ● 中国毛沢東主席死去 ● アメリカ建国200年記念 ● 「およげタイヤキくん」大ヒット ● U2結成 ● ディープ・パープル解散 |
Hotel California /Eagles |
ギターにジョー・ウォルシュを加えさらなるサウンドの強化を図ったアルバム。ロック史に残るツインリードの掛けあいが聞ける。まぎれもなく彼らの最高傑作である。 | |
Rocks /Aerosmith |
ヘヴィなロックン・ロールでありながら粗雑にならずポップでメロディアスなところが魅力。4作目は、エアロスミスをアメリカを代表するハード・ロック・バンドにした名作。 |
8.生存競争
1977年活躍したグループといえば、アース・ウィンド&ファイヤー、クール&ザ・ギャング、コモドアーズ、グラハム・セントラル・ステーション、ウォーなど、当時の彼らは最近では見られない大人数のバンドだった。そして、これらのバンドの間では、常に「メンバーの数の多さ」の競い合いがあったといわれている。しかし、数が多いこと、それは単にかっこいいとか、売れていることの証明ということだけではなかった。そこには、より複雑で分厚い「グルーブ」を生み出したいというファンクに対する思いがあった。
この時代のファンク・バンドたちは、その効果を最大限に引き出すため、メンバーの増強に努めた。そして、その競争において、常にそのトップを走っていたのが、「P-ファンク帝国」とまで言われた巨大ファンク軍団、パーラメントだった。彼らはそのピーク時、50名を越すメンバーを有していたと言われ、もうどこまでが本当のメンバーなのかわからない状態だったと言われている。そんな大人数のメンバーが全員思い思いの派手な衣装を身にまとい、ステージの上でこぼれ落ちんばかりに暴れ回っていた。
ピンク・フロイドがかつて巨大なセットによる大仕掛けなコンサートで有名で、あったが彼らのコンサートもそれに匹敵するものだったようだ。残念ながら、この時代に活躍したほとんどのファンク・バンドたちは、70年代後半から巻き起こった世界的なディスコ・ブームのなか、白人主導のレコード業界によりそのパワーを失い、薄っぺらなディスコ・サウンドを演奏するバンドに変化していった。
パーラメントも恐竜たちが、その姿を消してしまったように絶滅への道を歩みかけていた。それでも彼らは少しずつ巨大なバンドを分裂縮小させながら80年代までなんとか活躍を続けていくことが出来た。そして90年代のヒップ・ホップ時代の到来と共に、多くのヒップ・ホップ系のアーティストたちが、こぞって70年代ファンクのリズムトラックを使用し始めた事が原因で、再び脚光を浴びることになる。それは彼らの生み出したP-ファンクの分厚いグルーブほどサンプリングに適したサウンドは他になかった為である。
「生命の進化」とは、「適者生存」の原理、すなわち、よりその生活の場に合った特徴をもつ生物が生き残って行くことによって、押し進められてきたと言われている。そのために、生物の形やライフ・スタイルは、常に変化をし続けているわけである。しかし、時にこの進化は「進化の行き過ぎ」とも呼べる特殊な状況を生みだしてしまうことがある。例えば、かつて地球上で繁栄を誇ったアンモナイトは、進化の行き過ぎによって、ねじれたり、細長くなったり異常な形のものが増え、ついには絶滅の道を辿った。同じような「進化の行き過ぎ」は、パーラメントに当てはめれば、ポピュラー・ミュージックの変遷の過程にも存在したと言えるのではないだろうか。
1977 | アルバム | 時代背景 |
Simple Dreams /Linda Ronstadt |
ワディ・ワクテル、ラッセル・カンケルや後に後にステップスのメンバーとなるドン・グロルニックを迎え録音されたカントリーバラード主体の最高傑作である。 | ● スペースシャトル、テスト飛行 ● チャップリン死去 ● 王貞治756号ホームラン ● アメリカでTVドラマ『ルーツ』大ヒット ● イギリスでパンク暴動 ● エルビス・プレスリー、心臓麻痺で死亡 ● マーク・ボラン交通事故死 |
Rumours /Fleetwood Mac |
このアルバムから4曲ものヒット・シングルが生まれた。'77年グラミー賞最優秀アルバム。 | |
Funkentelechy Vs. The Placebo Syndrome /Perliament |
ピーク時には50人を越す大編成で活躍した巨大なファンクバンド。当時のステージはピンク・フロイドをも凌ぐ大掛かりな舞台装置で見る者を圧倒したと言われている。 | |
The Stranger /Billy Joel |
アルバム全体を通して大都会ニューヨークをテーマに歌い上げている。グラミー賞を2部門獲得し、このアルバムを切掛けに一躍メジャーアーティストになった |
9.ダイアー・ストレイツ
ダイアー・ストレイツ登場してきた1978年と言えば、ロック界はまさにパンク・ブームのまっただ中であった。しかし、保守的なアメリカのポピュラー音楽界では、結局パンク旋風が巻き起こることはなく、60年代から活躍を続ける大物ミュージシャンたちによるAOR的ロックがその主流を占めていた。そんな中、イギリスから現れたダイアー・ストレイツはそれまでのロックとは明らかに違っていたし、だからと言ってパンクでもなく、それどころかルーツ・ロック的な雰囲気はアメリカのバンドを思わせていた。
そんな彼らの音楽が、パンクを拒否し60年代のロックにも飽きていたアメリカのロック・ファンに受け入れられたのだろう。パンク・ブームはレコード購買層多様化のきっかけとなり、メジャーのレコード会社も、今までにない音楽を探すようになっていった。その結果、誰でも、バンドをつくり好きな音楽を演奏できるようになり、金持ちでなくても、レコード会社をつくって、好きなレコードを販売できるようになったのだ。数年前ならまったく無視されたであろう前衛的、芸術的なサウンドがメジャー・デビューする事が可能になっていった。ポップ・グループやPILのような過激なバンドが登場できたのは、こんな時代だったからこそである。
こうしてパンク・ロックは、ロックの世界にその原点へと戻る先祖帰りをもたらし、新しい進化の道筋を築くことになっていった。過去への進化の流れを、生物学では「幼形進化」ネオテニーと呼ぶらしい。これは生物の世界において、進化が行き詰まった時、しばしば登場する作戦であり、ポピュラー・ミュージックの進化にも当てはまるのはないだろうか。
1978 | アルバム | 時代背景 |
Dire Straits /Dire Straits |
ボブ・ディランの風の語るような歌い方と指で弾くギターで演奏するシンプルなアメリカン・ロック的なサウンドが斬新であり新鮮な印象のバンドだった。 | ● 成田空港開港 ● 日中平和友好条約調印 ● 映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』でビージーズの人気が高まる。 ● プリンスデビュー ● TOTO結成 ● キース・ムーン事故死 |
The Last Waltz /The Band |
'76年に行われたラスト・ライヴを収録。ボブ・ディラン、ニール・ヤング、エリック・クラプトン、リンゴ・スターがゲストで参加。The Bandは'93年に再結成した。 | |
Minute By Minute /Doobie Brothers |
新作を発表するごとにマイケル・マクドナルド色が強くなっていき、このアルバムでは彼のAOR的センスが大変強く打ち出されている。 |
10.ニューウェーブの登場
ニューヨークのパンクがローカル・ムーヴメントに終わったのに対してロンドンではイギリス全土を巻き込む一大ムーヴメントとなった。 しかし、ジャンルとしてのパンクの生き詰まりはすぐに来る。セックス・ピストルズが本格的に活動を開始したのは76年1月。それから2年。 旋風のようにイギリスのロック・シーンを席巻したパンク・ロック・ムーヴメントは、78年の初頭に急に終りを迎える。
”パンクは死んだ”と説が宣伝され、パンクの反社会性にいい顔をしなかった商売人たちはもっと耳障りのいい、 ニュー・ウェイブ”という言葉を持ち出した。つまり、”ニュー・ウェイブ”とは、資本側がパンクを葬り去るために用意した造語 だった。そこには、本来何の意味も持たないはずだったが、多種多様なアーティストたちがそのジャンルに参入していった。その波に乗って一躍スター街道を駆け上がったのがポリスである。
ポリスなどは、それぞれ長年のキャリアをもった中堅ミュージシャンだったが、パンク/ニューウェーブという衣を着ることによって、 初めて正当に評価されることになったのである。 多くのインディー・レーベルは売上にこだわらず、アーティストのクリエイテイヴィテイを最優先させるように活動していたし、そうした 姿勢が、メデイアによって宣せられたパンク終焉後のパンク精神の受け皿の役目を果たしていた。
商業資本の猛烈な攻勢によって、 急激に変質しつつあったメイジャー・フィールドの(ニューウェーブ)シーンを尻目に、その後のイギリスのロックの革新は、もっぱら インディー・レーベルを中心に繰り返される事になる。彼らの出世作であるこの年発売の「レガッタ・デ・ブランク」を久しぶりに聴いてみると、ポリスというバンドがギター、ドラムス、ベースという最小編成のトリオによるホワイト・レゲエ・バンドであり、パンクが破壊した古い壁を越えて登場した新しいタイプのバンドだったことがはっきりわかる。そして以後、ポリスの様なバンドが「ニューウェーブ」と呼ばれるようになり、ポスト・パンクの中心として1980年代を担っていくことになる。
1979 | アルバム | 時代背景 |
Regatta De Blanc /The Police |
レゲエリズムを取り入れシンプルでありながら非常に独創的なサウンドを聞かせてくれる。パンクブームの中でのデビューだった為かしばらくパンクであると誤解されていた。 | ● インベーダーゲーム流行 ● 米中国交樹立 ● 第2次オイルショック ● ウォークマン発売 ● YMOによるテクノブーム ● ダニー・ハザウェイ自殺 ● ミニー・リパートン病死 |
Restless Nights /Karla Bonoff |
シンガーソングライターである彼女の作品は多くリンダ・ロンシュタットに取り上げられている。非常にポップで聞きやすいサウンドにまとめられたアルバムである。 | |
Rickie Lee Jones /Rickie Lee Jones |
ファーストアルバムにして最高傑作と言われるアルバム。Chuck is in loveではスティーブ・ガッドが素晴らしいバッキングを聞かせる。 |
■ おわりに
今や音楽のジャンルは無数に増え、一昔前のようにジャンルを越えて、いろいろな音楽を聴くという楽しみ方は、困難なことになってしまった。そのうえ、音楽業界は巨額の広告費をつぎ込んだ限られた作品ばかりに力を注ぎ、新しい音楽との出会いを困難なものにしてしまっているように思える。冒頭でも述べている通り、やはり私にとっては70年代のポピュラー・ミュージックの存在は大きな財産である。
もうこの地球上でこんなに有意義で変化に富んで人の心を動かすような音楽の進化は起こらないかもしれないし、人類の進化の過程、文明の進化の過程でまたその時代に当てはまる音楽の進化が起こるのかもしれない。
1970年代のポピュラー・ミュージック・シーンのように多くのジャンルが存在する中で、その時代に共存して影響を与えあい、お互いに成長を遂げ、今もなお活動を続けているアーティスト達をいつまでも応援していきたい一方で、新しいポピュラー・ミュージックの誕生も待ち遠しく感じている。
*参考文献*
1) シンコー・ミュージック 2001 THE DIG 「英国ポップの精髄」
2)ミュージシャンズ・マガジン 1997 RECORD COLLECTOR’S MAGAZINE「英国音楽源流としてのフォーク」